この記事は、隠居生活を始めた10年前頃にある本で読んだ一言がきっかけです。その一言とは、竹内薫著「熱とはなんだろう」(講談社)にあった、Sackur-Tetrodeの式についてのくだりです。「熱力学の教科書には必ずでている。この式がでていない教科書はもぐりだといってもいい。」とありました。Sackur-Tetrodeの式は理想気体のエントロピーを表す理論式ですが、それほど重要ならと思って勉強しました。今回はこの式の導出がテーマです。
はじめに
エントロピーは、分子集団の微視的状態の数が分かれば、ボルツマン原理の式(S=klogW)によって計算できる。そもそも、分子集団の微視的状態とは、位相空間において、N個の分子おのおのの位置と運動量を指定した系の状態を指すが、微視的状態の数をどのように計算するかが問題である。以前のブログにおいて、分子集団の微視的状態の数を二つのアプローチで計算したことがある。一つはブログ「エネルギーのゆらぎ」注[i])の第3節にあった、カノニカル分布に従う粒子系のエネルギーEにおける微視的状態の状態密度G(E )で、もう一つはブログ「統計力学で出てくる未定乗数βの熱力学的意味(1)」注[ii])の第1節で出てきた、エネルギーの違いによって粒子を位相空間の細胞に配るとき実現確率が最大となるような配置数である。これから行う議論において、Sackur-Tetrodeの式の導出において扱う系は「温度Tで熱平衡状態にあるN個の理想気体分子の集団で、体積がVである」とする。
1.カノニカル分布に従う粒子系の状態密度G(E )を使う導出法
この導出法では、以前のブログ注1)で理想気体分子のカノニカル分布を導出した際に出てきた、エネルギーEにおける微視的状態の状態密度G(E )を適用する。G(E )の計算では、まず分子集団のエネルギーがE以下の位相空間の体積を求めたうえで、その体積を細胞の体積(ɑN=h3N)で割って、エネルギーがE以下の微視的状態の数N(E)を得た。なお、その際に同じ空間を飛び回るN個の気体分子は互いに入れ替わっても、微視状態が変わらないのでN !で除した。そして、G(E )=dN(E)/dEの関係を使ってG(E )の表式
が得られた。G(E )はエネルギーEにおける微視的状態の密度だから、単位エネルギー当たりの微視的状態数で、これを使ってエントロピーをS=klog G(E)によって計算することができる。
まずG(E)の分母にあるガンマ関数の計算から始める。ガンマ関数の公式 とStarling の近似式を使って
したがって、
となる。この式は、E=3NkT/2とおけば
であるから
と表わすこともできる。
2.ボルツマン分布をもたらす粒子の配置数Wを使う導出法
この導出法では、以前のブログ注ii)のボルツマン分布の導出の過程で出てきた、エネルギーの違いによって粒子を位相空間の細胞に配るとき実現確率が最大となるような配置数を使う。N個の粒子全体の運動状態をμ空間で表すために、すべて同じ体積ɑ(=h3)の微小な細胞に分けて、i番目の細胞内の各粒子のエネルギーをその細胞内の一点で決まるエネルギーの値 εiで近似する。N 個の粒子のうちの ni 個がi番目の細胞に入るような配置{n1、n2、……ni、……}の数は
である。粒子数一定、系のエネルギー一定の下で、Wが最大値をとる粒子の配置{n1、n2、……ni、……}を求めれば、総数Wの配置がそれぞれ微視的状態に対応することになる。計算の結果、ボルツマン分布の式
が得られる。計算の過程は、以前の記事「気体分子の運動エネルギー分布」(注ii)において詳述した。
まず、(3)の対数の計算をする。Starling の近似式を用いた後、さらに変形すると
最後の式のはN個の粒子の状態和Zで、1粒子の状態和zのN乗になっている。1粒子の状態和zはN個の識別可能な粒子から成る系に対して導かれたものであるが、同じ空間を飛び回るN個の気体分子は互いに入れ替わっても、微視的状態は変わらない。分子の入れ替えはN !通り可能であるので、この補正をしてZ=zN /N !とする注[iii])。
この点を考慮してN個の粒子からなる系のエントロピーを、(4)を用いて
となる。ここで1粒子の状態和 z
となる。ε=(px2+py2+pz2)/2mであるから
と得られる。よって、 (5)は
と変形され、第1節の(2)と同じ結果になる。
3.Gibbsのパラドックス
異種の気体の混合を考える。初めの状態Aで、体積V、粒子数Nの二種類の気体が中央の仕切りで隔てられているとする。全体のエントロピーは、
仕切りが外されるとそれぞれの気体は体積が2倍になり、混合後の状態Bの全エントロピーはそれぞれの気体のエントロピーの和で
である。よって、混合によるエントロピーの変化は
となり、エントロピーが右辺の値だけ増加する。
ところが、上記の思考実験で混合する気体が同種の場合、仕切りを外したときの気体分子の移動は異種の場合と全く同じであるのに、実際にはエントロピーは変化しない。これをGibbsのパラドックスと言う。Sackur-Tetrodeの式によってこの事実を説明すると、次のようになる。仕切りを外す前の状態の全体のエントロピーは上のSAと同じである。仕切りを外した状態SCでは、2N個の分子が体積2V を占めるので、
となり、SC-SA=0である。つまり、同種の気体の混合によってエントロピーが変化しない。このように正しい結果になるのは、Sackur-Tetrodeの式を導く過程で、同じ空間を飛び回る同種の気体分子の系に対して、識別可能な粒子を想定して得られた微視的状態数をN!で割っておいたからである。
参考資料
1. https://arxiv.org/pdf/1112.3748.pdf
2. 桂 重俊, 井上 真 著「統計力学演習」東京電機大学出版局 1993、pp. 41-69(第3章 ミクロカノニカル集合の方法)
3. 都築卓司 著「統計力学入門 自然科学になぜ統計が必要か」総合科学出版、1969、pp.43-53(一般的な解法)、pp.92-101(§2.5状態密度、§2.6不確定性原理の導入)、pp.115-121 (§3.2状態和)
4. 和達 三樹 , ⼗河 清 , 出⼝ 哲⽣ 著「ゼロからの熱力学と統計力学」岩波書店2005、 pp. 93-150(第5章 古典統計力学、第6章 正準集団)
(後記) ” Sackur -Tetrode equation”でインターネット検索して、W. Grimus著「On the 100th anniversary of the Sackur–Tetrode equation」注[iv])と題する論文を見つけました。今回の記事の第1節と第2節で述べたそれぞれの導出法が、Hugo Tetrode とOtto Sackur の思考に沿ったものであることを知りました。その論文では、多粒子系の運動を表すために、位相空間を体積がdqdp=h (q,位置; p,運動量; h,プランク定数)の細胞に分けて離散化したことが、彼らの偉業であると強調されていました。
注[iii])粒子系が大きい熱浴に接していて、両者の間では熱の出入りが可能で、温度が一定値Tに保たれおり、粒子系と熱浴を合わせた系は外界から孤立しているとする。そしてΓ空間において、この粒子系の細胞jにエネルギーEjの微視的状態が入り、その数をGjとすると、粒子系の状態和は、
と表わされる。ここで、系全体のエネルギーが個々の粒子のエネルギーの総和で表される場合(粒子間の相互作用を無視できる)を考える。微視的状態jにある系のエネルギーは、系を構成するi番目の粒子が持つエネルギーをεjiとすると
と書ける。[1]の総和は、あらゆる微視的状態(j=1, 2, …)にある系のN個すべての粒子(i=1, 2,…, N)について取らねばならない。
ここで簡単のために、2粒子からなる系があって、粒子1と2がそれぞれ微視的状態1と2をとる場合を考える。各粒子に対する1粒子の状態和は次のように書ける。
ここで、ε1iとε2iはそれぞれ微視的状態1と2をとる系のμ空間のi番目の細胞のエネルギーである。2粒子から成る系の状態和Z12を求めるには、それぞれの細胞のエネルギーの可能な組み合わせを数え上げればよい。これは級数の和z1とz2の掛け算になるので
と表わされる。2つの粒子が同種の場合には、z1とz2は同値であるからこれをzとおくと、Z12=z2となる。2粒子から成る系の議論を拡張すると、N個の粒子から成る系の状態和[1]は、N個の級数の和の積で表され
と得られる。
[2]はN個の識別可能な粒子から成る系に対して導かれたものであるが、同じ空間を飛び回るN個の気体分子は互いに入れ替わっても、微視的状態は変わらない(これは気体分子が本来量子論に従う識別不可能な粒子であるためである)。分子の入れ替えはN !通り可能であるので、状態和の計算においてこの補正すると
となる。
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